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日テレ ドラえもん 富山事件2021/04/18
日テレ版が放送された1973年は、「ドラえもん」の漫画連載が小学館の学年誌でスタートして3年目… 知名度はまだ低かったのですが、期待はされていたようで、放送時間は裏番組に永井豪の「マジンガーZ」(フジテレビ系)があった日曜の夜7時でした。 藤本 「これからも二人で一人、仲良く描き続けていきたいね。」 安孫子「ジャイアンみたいないじめっ子だって友だちなんだというのっていいなあ、やっぱり。」 『ドラえもん』は、藤子・F・不二雄の漫画『ドラえもん』を原作とする日本テレビ動画制作のテレビアニメである。 安孫子「やっぱり、何でも打ち明けられて、信頼し合えるっていう友だち関係は、すごく好きだなぁ。」 富山テレビはフジテレビ系で、富山県の日テレ系列局は北日本放送なので、初回放送とは異なる局で放送されたので正確には再放送ではなく富山テレビでの初回放送になるわけだが(当初、 富山県ではテレビ朝日版「ドラえもん」は放送されていなかった。 その3ヵ月後、富山県で事件が起きる。黒歴史になっていた筈の日テレ版が、『富山テレビ』で再放送されたのだ。これに怒ったのが、ドラえもんの原作者である藤子・f・不二雄(※本名は藤本弘)だった。 !』の35mmネガフィルムも発見された[63]。こちらは谷岡作品の版権を管理している株式会社ソニー・デジタルエンタテインメント・サービスが本作の原版フィルムを入手し、2016年に東京国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)に寄贈されている。また本作は過去にもゆうばり国際ファンタスティック映画祭2005や東京国立近代美術館フィルムセンターの上映企画「発掘された映画たち2018」などで限定的に再上映されたことがあり[63]、2019年10月2日にはDIGレーベルから初公開以来48年目にして初ソフト化され一部で話題となった[64]。, 1973年公開の山本晋也監督のピンク映画『ドキュメントポルノ 続・痴漢』(プリマ企画)では、開始後34分付近の男性医師がアパートの女性の住む部屋を覗くシーンで、背景のモノクロテレビの画面に本作の映像が写り込んでおり、動く映像を30秒ほど見ることができる。その後、裏番組の『マジンガーZ』にチャンネルが変えられている(音声は『サザエさん』『ワンサくん』のものを使用)。, 日本テレビ動画が『ドラえもん』を企画しなかったら、それまで多くの藤子アニメを製作した東京ムービーが『新オバケのQ太郎』の後番組として製作する可能性があったという[注 33]。, 日本テレビ動画が本作を企画した1972年には、ピー・プロダクションのうしおそうじによるフジテレビをキー局とした、もう一つの『ドラえもん』の企画があったとされる[65]。この企画書は200字詰め原稿用紙(表紙含む)6枚と添付資料「ドラえもんの大ひみつ」(学年誌掲載分)のコピー1枚の合計7枚から成る。, これはCX系10月新番組の放送枠獲得を狙ったもので『幼稚園』1972年8月号には「テレビにでるのをまっててね」という告知文も掲載されていた[2]。当初はアニメと実写の双方で企画され、後に実写へと企画が転向された。作者の藤子不二雄両人もピープロに訪れ「実写でやろう」と同意。この際にドラえもんの声優として挙がっていたのが、奇しくも大山のぶ代だった。大山の起用は、先にピープロ制作のアニメ『ハリスの旋風』での演技を見込まれてのことだった。既にドラえもんの着ぐるみまで試作されていたものの、この企画がどの程度具体化し、どの時点で頓挫したかについては不明[66][67]。ちなみに企画書ではドラえもんのキャラクター設定は原作から改変されて「宇宙からやって来た宇宙ロボット」になる予定だった[68]。, 本作終了後、1976年から江崎グリコの「アーモンドグリコ」の内箱にドラえもんや里中満智子のイラストが掲載されていたが、この時テレビCMに登場したドラえもんは、本作後期の野沢雅子が担当していた。, 日本テレビ版『ドラえもん』制作の影には、藤子不二雄の師匠筋である手塚治虫の存在が深く関わっていたとされる[8]。, かつて旧虫プロダクションで手塚の秘書を務めていた下崎闊(真佐美ジュン)は『ドラえもん』のアニメ化を知った手塚から「いい作品だからやりなさい」と度々励まされ、オイルショックでアニメ用の画材やセルが入手しにくくなった際には、手塚が問屋に直接電話して熱心に口説いてくれたと証言している[8]。また『ドラえもん』の制作中に「下崎にアニメは作れない」という中傷文が日本テレビに届き、下崎を降板させる動きが局内で出た際には、噂をいち早く聞きつけた手塚が「下崎氏は虫プロ・手塚プロで豊富な経験を持つ最も信用のおける男です」「いわば僕の右腕だったんですよ!」と局関係者に電話口で説得し、その甲斐あって真佐美は名誉を回復することが出来たという[69]。, なおスタッフには旧虫プロ出身者が多数在籍していたため、のび太の通う小学校は虫プロ近くの小学校がモデルで、作中に登場する駅舎は虫プロの最寄り駅だった西武池袋線の富士見台駅旧駅舎がモデルとなった。またスネ夫の家は「明らかに手塚先生の自宅がイメージ」と真佐美は述べている[70]。, 手塚と下崎の関わりについては宮崎克原作・野上武志漫画の『TVアニメ創作秘話〜手塚治虫とアニメを作った若者たち〜』(秋田書店、2019年)で前後編にわたってコミカライズされている[71]。, 下記のサイトはAdobe Flash Playerのサポート終了により、2021年1月12日以降閲覧不可となった。, 2005年4月より放送中のシリーズのDVDは『NEW TV版 ドラえもん』というタイトルで発売されている。, 当時、日本テレビ動画は東京都中野区と元来の本拠だった新潟市にスタジオを構えていた。「東京に本社を移した」とされるが、, その後、新倉はフィリピンに移住し、1986年5月に拳銃密輸で逮捕、送検されている。送検・起訴後の報道はなく、以後の消息などは不明, 作品初期は、まだ藤子Fと藤子Aの作品ごとの分業が確立した初期だったが、制作プロダクション(, そのため、最終回後に発行された『小学四年生』1973年11月号掲載の『ドラえもん』の扉絵には「テレビ大人気放送ちゅう」とのあおり文句がある(安藤、1982年、p.63に該当ページの写真が掲載されている)。, 全体のスケジュール作成管理、スタッフの手配、外注先の選択、単価交渉などを統括した現場責任者。, 安藤、2008年、pp.64 - 65。真佐美ジュンの証言内容はプロデューサーだった佐々木一雄からの伝聞という。, 安藤、2008年、p.45。このページのリストでは後述の富山テレビの再放送以前に全国の8局で9回(日本テレビのみ2回)の再放映がおこなわれたことが示されている。, 【幻のドラえもん】(下)突然の最終回、セル画は河川敷で燃やされた (1/3ページ), 【幻のドラえもん】(下)突然の最終回、セル画は河川敷で燃やされた (2/3ページ), 日テレ版ドラえもんには「どこでもドア」は登場せず謎の秘密兵器「ミラクル扉」が登場するという話, 伝説のカルトアニメ映画『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』が劇場公開48年目にして奇跡&無謀の初ソフト化!! その3ヵ月後、富山県で事件が起きる。黒歴史になっていた筈の日テレ版が、『富山テレビ』で再放送されたのだ。これに怒ったのが、ドラえもんの原作者である藤子・f・不二雄(※本名は藤本弘)だった。 ?」(藤子・F・不二雄大全集第1巻収録)である。これは真佐美ジュンが提案したもので、真佐美が幼いころ、板金塗装会社に勤めていた父親を浦和駅まで迎えに行くために、自転車を練習した思い出と重なったからだという[19]。, ストーリーは原作とおおむね同じだが、原作には未登場だったジャイアン・スネ夫・しずか・パパ・ママ・ガチャ子が登場し、ドラえもんとの別れを惜しんでいたほか、ドラえもんの嘘に協力するのはセワシではなくガチャ子になっている。, この回が最後の放送だったにもかかわらず、ラストのアイキャッチは「次回をお楽しみに」と表記された。これは手抜きやミスではなく日本テレビ動画の再建と続編への希望を込めたものである。, またエンドカードにはドラえもんの丸い手から黄色い小鳥が飛び立っていく作中のシーンが採用された。これにも続編製作の希望として「再会」の意味が込められているという。ヒントに真佐美が昔見た映画で「無事に帰って来て」という願いが黄色いリボンで描写されていたことに由来する[15]。, 放送終了から5年半後、アニメ第2作1期の第1話を見た真佐美は「大変素晴らしい出来で、とても安心しました。大山のぶ代さんの声も、あれなら大成功だなと思いました」という感想を述べている[2]。日本テレビ動画のスタッフ達の願いであった「自分達の手で再び作ること」は遂に叶わなかったが『ドラえもん』に対する思いは、このような形でシンエイ動画へと引き継がれたのである[2]。, 放送終了後、フィルムは制作局の日本テレビで7年間管理され、その間は地方局へ貸し出されたりしていたが、日本テレビでの管理期間終了後に散逸したとされている。さらに、事実上の封印措置と制作会社の消滅という事象も重なり、現在はネガはもとよりコピーポジフィルム保管先も不明(あるいは散逸)といえる状況である。, テレビアニメ作品の著作権は通常、制作プロダクションが保持することになっているが、制作会社である日本テレビ動画の消滅により本作の著作権は、不明瞭のままになっている。本作の印象から日本放送映画→東京テレビ動画→日本テレビ動画までの作品全ての版権が不明瞭になっていると誤解されることがあるが、日本テレビ動画作品にはビデオ化や再放送の行われた作品が多数存在するため、現在でも同社から作品の版権を引き継いで管理している者が存在するとみられる。, 現存する映像としては、元スタッフの真佐美ジュンが個人的に保管している8話分のラッシュフィルム(ポジフィルム)のほか、本作の現像を担当した東洋現像所(現:IMAGICA)に後半16話分(第18回、第20回 - 第26回)のネガフィルムが保存されており、現在もIMAGICAが委託している東京湾岸の倉庫にフィルムが保管されているが、権利者不明のため宙に浮いた存在になっている[23]。なお、真佐美の保管しているラッシュフィルムは、現像して上がってきたフィルムのうち口パク、演出、作画、色味に誤りがあり、リテイクした未放送の16ミリフィルムを真佐美が個人負担で買い取ったもので、実際の放送に使用されたものではない[6][2][9]。, なお、IMAGICAでは日本テレビ動画の前身にあたる東京テレビ動画が1971年9月24日に公開した谷岡ヤスジ原作の劇場用作品『ヤスジのポルノラマ やっちまえ! 4月10日(土)午後2:00~3:54 atv 青森テレビ 4月15日(木)午後2:00~3:52. mixi(ミクシィ)は、日記、写真共有、ゲームや便利ツール満載のアプリなど、さまざまなサービスで友人・知人とのコミュニケーションをさらに便利に楽しくする、日本最大規模のソーシャル・ネットワーキングサービスです。 スペシャル編 無料見逃し配信中! 配信期間:4月16日(金)23:59まで ではもし今も日テレで続いていたら? テレ朝の金曜19時台のアニメ枠消滅。 あるいは日曜朝に放送されている東映スーパーヒーロータイムが金曜19時台に移転。 テレ朝版「ドラえもん」も、元々日曜朝だったので、可能性としては高い。 『ドラえもん』のアニメには以下の3作品が存在する。, これらを区別する呼称は公式には発表されていないが[注 2]、アニメ誌では2005年4月より放送中のシリーズを『ドラえもん(新・第2期)』としている。本項ではそれに倣い、1973年に日本テレビ系列で放送されたシリーズを第1作、1979年よりテレビ朝日系列で放送されているシリーズをまとめて第2作とする。また第2作において、1979年から2005年3月まで放送されたシリーズを第1期、2005年4月から放送中のシリーズを第2期とする。, 本作の企画は日本テレビ動画社長の新倉雅美(別名・渡辺清)によって立ち上げられたと推測されている[注 3][3][2]。なお、新倉は当初、硬派任侠物の『少年次郎長三国志』のアニメ化を切望したが、企画が頓挫[3]。つなぎ番組として本作が放映されることになった経緯がある[3]。, 一方、当時『小学二年生』編集長だった小学館の井川浩は、新潟のアニメ制作会社が制作するテレビアニメの原作を推薦するよう日本テレビのプロデューサーから頼まれて人気の高かった『ドラえもん』と『かあさん星』(谷ゆき子作)を推薦したことを証言しているほか、日本テレビプロデューサーだった川口晴年は、チーフプロデューサーの藤井賢祐が企画を提出した後に、読売新聞から派遣された専務が会議で日本テレビ動画で制作することを有無を言わさない形で決めたと証言している[4]。, これに関して制作担当の下崎闊は、日本テレビ動画が本作の放送枠を取る時に「周りの反感を買うようなやり方をした」ことや前身の東京テレビ動画時代に社長の新倉雅美が日本テレビプロデューサーの藤井賢祐と金銭的な不祥事を起こしていたことなどから「日本テレビの心ある人は信用してなかったみたい。だから会社がそのようになった時の反応は早かったですね」と同人誌のインタビューで語っている[2]。また日本テレビ動画の元関係者は、日曜ゴールデンタイム枠に本作を入れるのに「本来は別の番組で決まっていたのを、無理やりねじ込んだ」という噂を聞いたことがあると証言している[5]。, 本作の制作進行やスケジュール管理など実務全般を取り仕切った制作主任の真佐美ジュン(本作では本名の「下崎闊」名義で参加)は、1972年に手塚プロダクションを退社後、日本テレビ動画のグロス請けを担当していたスタジオTAKEでテレビアニメ『モンシェリCoCo』を手伝った縁から日本テレビ動画の佐々木一雄プロデューサーと知り合った[注 4]。真佐美によると日本テレビ動画では『モンシェリCoCo』の後作品として企画のひとつに『ドラえもん』があり、1972年7月以前には『ドラえもん』の企画が既に存在していたという[3]。, 『ドラえもん』に企画が絞られた頃、真佐美は中野サンプラザ近くの高級焼肉店で、佐々木から本作の制作担当を依頼された。この時、初めて原作漫画を読んだ真佐美は、本作が子供たちに夢を与える内容であると感じ、アニメの世界に入ってから常に「子供に夢のある作品を」と思い続けていた真佐美は「今後このスタジオから、将来のアニメ界を背負っていくような人材を育てていこう」と将来の夢を佐々木と語り合い、快く協力することを約束[6][7]。1972年11月に日本テレビ動画へ入社した。, 真佐美が演出を担当したパイロットフィルムのメインとなるヘリトンボで空を飛べるという、夢のシーンの紹介では、作画スタッフらも童心に返って一生懸命昼夜を問わず作り上げたシーンだったと回想する[3]。なお、局側の都合で放送3ヶ月前に企画が急遽決定したため、真佐美は予定より早くパイロットフィルムを作り上げ、完成後にはスタジオ近くの幼稚園で試写を行うなどして子供達の反応も事前に確かめていたという[8]。, なお、真佐美は「当時『ドラえもん』をテレビアニメ化するのは相当な冒険であって、今でこそ国民的な漫画となっているが、当時はまだ原作漫画の単行本も出ておらず、子供でも『ドラえもん』を読んでいたのは小学館の学年誌を買ってもらってる一部の子供だけであり、他の(大手週刊少年)漫画雑誌連載のテレビアニメ化とはわけが違った」と述べている[3]。また藤子不二雄FCネオ・ユートピア編集部の武藤晃も「この頃の『ドラえもん』の立場を表すなら『藤子不二雄ランド』が刊行される前の『バウバウ大臣』みたいなもので、先輩の『オバQ』『パーマン』『怪物くん』などと比べても明らかにマイナーな存在であることは否めなかった」「常識で考えればそのような作品をアニメ化するのは異例とも言えるが、その少し前に放映されていた『新オバケのQ太郎』のヒットの影響も大きかったのかもしれない。勿論『新オバQ』がヒットしたからといって、同じ作者の別の作品が簡単にアニメ化される程この業界は甘くはないだろうから、社長の新倉雅美さん達の先見の明とその後の努力が実を結んだのであろう」と推察している[2]。, メインスタッフには旧虫プロダクション出身のメンバーが集い、アニメ制作は日本テレビ動画の東京および新潟スタジオ[注 5]と、幾つかのグロス請けスタジオがローテーションを組んでスタートした。グロス請け先は、スタジオジョーク、スタジオ古留美、アド5、トップクラフトなどのローテーションが当初予定されていたが、放送開始前後にスタッフの変更もあったようで、確定とは行かなかった模様である。なお、真佐美が個人的にラッシュフィルムを保管している第21回Bパート「お天気ボックスの巻」は、後に第2作以降の制作を請け負うことになるシンエイ動画の前身であるAプロダクションに外注されていたことが近年判明している[2][9]。, チーフディレクターは後にスタジオぴえろを創設する上梨満雄であった。上梨を選んだ真佐美ジュンは、その理由として「人柄も他人の面倒見も良く、穏やかだが一つ作品に入り込むと妥協を許さない」と述べており、日本テレビ動画で若手を育てようと将来の夢を語ってチーフディレクターに迎え入れたという[2]。また真佐美は「一人の演出家が全体の流れを統一したほうが原作者の意向を反映出来るため。そして全体を任せられて、若手で力のある演出家を選びたかったから」とも語っている[3]。しかし実際には原作者からの注文や要望はほとんどなかったとされ、上梨も最後まで原作者と会うことはなかった[6][10]。, 当初、ドラえもんの声は富田耕生が担当した。現在放送中のアニメ第2作とはイメージが異なるが、当時のスタッフは、ドラえもんというキャラクターに「世話好きなおじさん」というイメージを抱いていたことから、動物役なども多く演じていた富田に初めから配役するよう決めていたという[3]。, アニメ第2作以降と比較して、色指定のコントラストは穏やかだった。これは、1973年当時のアニメの多くが一度35mmネガフィルムで撮影し、その後、16mmポジフィルムに転写してテレシネスコープで放映するという物だったのに対し、本作は直接16mmフィルムで撮影していたことにも起因する。なお、キャラクターの声を担当した野沢雅子や肝付兼太は後に本作をモノクロ作品だと述懐しているが、実際にはカラー作品である[注 6]。, 1973年4月1日、事前に制作されていたパイロットフィルムを流用し再構成した「出た!ドラえもんの巻」を第1話として放映が開始された[注 7][6]。, 本作は日曜の夜7時からの30分番組というゴールデンタイムでの放送だったが、小学生向けの漫画を原作として製作された本作は、対象とする年齢が低かったこともあり、強力な裏番組に押され、当初は視聴率で苦戦したとされる[注 8]。また半年間という当時としては比較的短期間の放送だったため、「不人気で打ち切り」という噂が一般化していたが、実際には元々2クールの放送契約で、ある程度の視聴率が確保出来たらその後も継続するという契約だった[注 9]。なお、この時間帯はそれまで日本テレビが視聴率で歴代苦戦を強いられてきた枠でもあり、局側としては「5%も行けばいい方」と視聴率に関しては比較的寛容な姿勢を取っていたという[8]。, その後、1クール終了の間際に制作会議が招集され、日本テレビ側は視聴率が10%を超えれば放送を継続するとした[3]。また『小学五年生』『小学六年生』での連載が4月号から開始されたこともあり、番組の対象年齢の引き上げと「世話好きなおじさん」然としたドラえもんの年齢イメージを下げることを目的に、ドラえもんの声を担当していた富田耕生を降板させ、2代目となる野沢雅子に交代するなどのテコ入れを図った[注 10][3]。放送2クール目に入ると、原作では数回しか登場しなかったアヒル型ロボット「ガチャ子」をレギュラー入りさせるなどスラップスティック要素も強調したという[3]。, なお、幼年誌や低学年誌に掲載された原作漫画は短いページ数でまとめられていてストーリー性が薄く、アニメ化すると尺が余ってしまうため、原作を元にしつつアニメオリジナルの要素を随所に入れていき、放送後半にはテレビアニメのオリジナル要素がかなり増えたという[3][8]。また当時は原作漫画の連載が開始されてからまだ3年程度で、原作のストックも少なくすぐに使い切ってしまい、放送が継続されていたとしたらオリジナルストーリー主体になっていただろうと真佐美ジュンは述べている[3]。ちなみに原作不足のためテレビ用に書き起こしたオリジナル設定は原作者の承諾済みであり、真佐美としては「原作を外れた内容を作ったという意識はない」としている[8]。また当時の制作スタッフは音声まで入った完成フィルムを惜しげもなく全面リテイクするなど、クオリティの向上には常に真摯に取り組んでいたという[3]。, これらのテコ入れの甲斐もあり、徐々に視聴率も上がっていたと真佐美は述べている[3]。また収益自体も黒字で、スタッフらは8月初旬に千葉県房総半島にある日本テレビの保養所に招かれて豪華な接待を受け[11]、実際に3クール目に延長する予定もあったという[注 9]。, 「後半上昇した」とされていた視聴率について、安藤健二が初回放映時の関東地区におけるビデオリサーチのデータを調査した結果では、序盤の第1回、6回、8回で10%近い数値を記録した後、第11回から16回までが5 - 6%前後と低迷、その後第20回前後に上昇に転じるものの序盤の水準に届いた程度で、25回までは再び下落し、最終回で少し上がったものの、全26回で最高が9.1%と一度も10%を超えることはなく、平均が6.6%であった[12]。主演声優が交代した前半と後半を比較すると、前半の平均7.2%に対して後半は6.6%と従来の説とは反対に後半の方が低く、安藤は声優交代は「裏目に出たようだ」と評している[13]。, 2クール終了間際の1973年8月中旬、日本テレビ動画の実質的経営者(社長と自称)だった新倉雅美が突然失踪した[注 11]。真佐美ジュンによると、新倉が失踪する前後の8月初旬と9月初旬に日本テレビのプロデューサーから「日本テレビ動画が解散するという話が下請けから出ている。それが本当なら下請け側は死活問題なので、入金の保証があるまで納品しないという状況になっている。その話は本当か?」と聞かれ、真佐美は否定したが「絶対に放送に穴はあけないでくれ」と釘を刺されたという[2][3]。また真佐美は入金を心配する下請け側に対しても「もし何かあったら責任を取って私はこの業界から足を洗う。私の顔を立ててくれないか?」と説得しに回ったという[2][3][7][15]。, その後、経営を引き継いだ同社の会長(登記上の代表取締役だった、NST新潟総合テレビ役員の稲庭左武郎を指すとみられる[注 12])はアニメ会社の経営に無関心な人物で、「もう止めよう」の一言で会社は解散となった[2][3]。, 解散について真佐美は、失踪した社長の新倉雅美が前身の東京テレビ動画時代に社運をかけて製作した劇場用作品『ヤスジのポルノラマ やっちまえ! シグナル【出演者】無線機を通じてつながる“現在”と“過去”の刑事が長期未解決事件に挑む!時を超えた正義への強い思いとさまざまな人間模様が織りなす予測不可能なヒューマンサスペンス 試写会 『妖怪大戦争 ガーディアンズ』 親子モニター試写会 参加者募集! 舞台挨拶 『名探偵コナン 緋色の弾丸』公開記念舞台挨拶 開催決定! 試写会 映画『キャラクター』完成披露試写会 開催決定! その他 【公開日に関するお知らせ】『シン・エヴァンゲリオン劇場版』 藤子・F・不二雄原作の漫画『ドラえもん』のアニメ版といえば、1979年(昭和54年)からテレビ朝日系列で放映されているシンエイ動画製作のものが一般的となっている。 しかし、実はそれ以前にも一度『ドラえもん』はアニメ化されており、それが『日テレ版ドラえもん』なのである。 1973年(昭和48年)に日本テレビ系列で放映され、製作会社は「日本テレビ動画」(日テレとは資本関係もない無関係の会社で現にTBS系列でアニメを作成している。しかしながら前々身の日本放送映画と東京テレビ動 … 日テレ版ドラえもんも1回放送していた。 主に、新オバQ、バカボン、ルパン、バロム1、侍ジャイアンツ、そして・・・。 ヤマトは、本放送終了のあとの再放送はどっちが早かったかな。 Copyright © CyberAgent, Inc. All Rights Reserved. ちなみに、この旧「ドラえもん」、テレビ朝日で心機一転、新「ドラえもん」の放送がスタートした3ヶ月後に、富山テレビで再放送されているのですが、それを知った藤本さんが激怒。(「富山事件」) 藤本さんは、 と、旧「ドラえもん」の内容がまったく気に入っておらず、 と、おっしゃったそうで、 藤本さんが所属していた「藤子スタジオ」は、小学館と連名で、 と、富山テレビに内容証明を送って抗議しているのです。 (そもそも、(旧「ドラえもん」については、藤本さんが所属していた「藤子 … 藤本 「ぼくたち同士、なが年の友だちだし、そういったことが自然に作品に反映されるのかもしれないね。」 !』が移動した。木曜夜7時半枠は夜8時に放送していた「木曜スペシャル」を枠拡大するように変更された。, なお日曜夜7時枠でアニメが放送されたのは、1968年4月7日から1969年9月まで放送された『ディズニーランド』以来だが、『ディズニーランド』は「海外作品」「1時間番組」「実写と併用」であったため、「国産」「30分作品」「オールアニメ」は『ドラえもん』が開局以来初めてであった。その後、同枠では1989年に『シティーハンター3』、1991年に『シティーハンター'91』がそれぞれ放送されるが、いずれもよみうりテレビ制作作品であるため、日本テレビ制作作品は『ドラえもん』が唯一となった。, 本作の放送終了後、日本テレビ制作の『T・Pぼん』が1989年に放送されるまでの間、日本テレビ系列で新作の藤子アニメが放送されることはなかった。, 本作の声優を担当した声優の一部は、シンエイ版にも続投して主要人物を演じており、太田淑子はのび太からセワシ、小原乃梨子はのび太のママからのび太、肝付兼太はジャイアンからスネ夫を演じている。また我成先生(のび太のクラス担任)、スネ夫の父を担当した加藤治は同じく先生は一時期、スネ夫の父は2005年に声優陣が一新されるまで担当していた(途中、代役あり)。, 劇場版では、富田耕生は『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』でポセイドン、『ドラえもん のび太の南海大冒険』でドクタークロン、『ザ☆ドラえもんズ おかしなお菓子なオカシナナ?』でサト国王を演じているほか、野沢雅子は『ドラえもん のび太の宇宙漂流記』でログを、『ドラえもん のび太とロボット王国』でクルリンパを、『ドラえもん のび太と奇跡の島 〜アニマル アドベンチャー〜』で少年のび助を演じた。, また1983年の(シンエイ版)実写アニメ合成の特別番組『ドラえもん・ヨーロッパ鉄道の旅』では、しゃべるひみつ道具キャラクター「なんでもナレーター」の声として登場している。また、野沢はシンエイ版のテーマ曲「ドラえもんのうた」「ドラえもん音頭」のキングレコード版カバー音源にてドラえもんの声を担当した(初出は1980年発売の2枚組オムニバスLP『最新アニメ主題歌ベスト28』K13A-71/2である)。他にも野村道子、神谷明、田中亮一など、シンエイ版でもドラえもんのキャラクターを演じた人物が出演している。, 2021年4月の段階で、再放送およびDVD化はなく、テレビ番組などでまれに紹介される機会があっても、本作に関する説明がなされたこともほとんどない(雑誌やムック本などのドラえもんや藤子アニメの年表にも本作のことが掲載されていないケースが多い)[注 15]。その理由と経緯については、安藤健二の著書『封印作品の憂鬱』(洋泉社、2008年)において、小学館関係者などの証言が詳しく述べられている。, 原作者の藤子・F・不二雄は本作の内容に否定的であったとされる[注 16]。このアニメ化は、前記のように日本テレビのプロデューサーからの小学館への申し入れによって決まったとされ、当初藤子・F・不二雄は日本テレビから寄せられた依頼に応じて舞台となる街や野比家の設定に使う絵を制作会社に送ったりしたが、それに対する反応がまったくなかったと前記の井川浩は述べている[4]。, その一方で、制作主任であった真佐美ジュンによると、藤子・F・不二雄との打ち合わせに関しては、当初は真佐美が喫茶店で当たっていたと証言しており、「原作者からの注文や要望は最後までなかった」と述べている[2][3]。その後、藤子・F・不二雄は次第に仕事の都合から出向いてまで打ち合わせを行える暇がなくなり、その際には当時藤子・F・不二雄と共に「藤子不二雄」として活動していた名義上は本作の原作者の一人である安孫子素雄(藤子不二雄Ⓐ)[注 17]と構成などの打ち合わせをしたという[3]。藤子・F・不二雄とのパイプ役には文芸担当の徳丸正夫が「演出的センスを持っていて人当たりがよく辛抱強い」という理由から「原作者との校閲係」に選ばれ、藤子・F・不二雄との「脚本」「絵コンテ」「キャラクター設定」「色指定の校閲」のパイプ役として打ち合わせにあたっていたという[6][2][3]。徳丸正夫は打ち合わせをするため、スタジオ・ゼロ(かつて藤子スタジオはスタジオ・ゼロのビル内にあった)に24時間待機して、空いた時間を使って藤子・F・不二雄と常に校閲を行っていたという[6][3]。これらの点は、井川浩ら「原作者や小学館とは没交渉のままアニメ制作が進められた」という小学館関係者の証言とは大きく食い違っている。ちなみにフィルムの編集作業は、奇しくも当時の藤子スタジオと同じビルのスタジオ・ゼロで行われていた[注 18][6]。, 放映中に制作会社が突然解散したことで残されたスタッフは債権処理などに追われた。そのためか「番組が打ち切られた報せが小学館に来なかった」と、井川浩は述べている[注 19][21]。, 当時の漫画界では「アニメが終わったら原作も終わる」というのが常識であり、そのため『ドラえもん』も一時は連載を終わらせ、新キャラクターと入れ替えようという話が小学館から出ていたという[31]。しかし自作『ドラえもん』に愛着のあった藤子・F・不二雄は、それを押し切る形で新連載である『みきおとミキオ』との2本立ての形で連載を続行したが、1974年より刊行が始まった『ドラえもん』の単行本が予想外の大ヒットとなったため、『みきおとミキオ』の連載は1年で打ち切られた[32]。, 1979年、アニメ第2作1期の放送が開始された頃、7月から8月にかけて藤子・F・不二雄の故郷でもある富山県の富山テレビ(フジテレビ系列)で本作が再放送された[注 20]が、9回目(第5話Aパート)の放送で打ち切られた[25][33]。これを最後に再放送は行われていない。この出来事は「富山事件」とも呼ばれている[25]。, 元小学館専務の赤座登はこの件について、富山県での再放送の情報が小学館や藤子スタジオに入った時、藤子・F・不二雄は憤慨し、「私が作った原作のイメージと違うし、放送してほしくない。できたら何とかしてほしい」と述べ[34]、これを受けて小学館と藤子スタジオは日本テレビ版の契約書がない(作成していなかった)ことを確認し、「口頭契約は最初の放映の許諾にとどまる」という弁護士の見解を得てから、原作者の意向に沿って、小学館と藤子スタジオの連名で、放送中止を求める警告状を内容証明郵便で富山テレビに送ったと証言している[34]。, 一方、テレビ朝日元編成担当の高橋浩は自著『視聴率15%を保証します!』(小学館新書、2014年)の中で「せっかく放送開始したのに日本テレビの旧作が再放送されると、子どもたちが混乱してしまう恐れがあるので、小学館に旧作を封印してもらいました」と証言しており[35]、本作の封印はテレビ朝日関係者が主導したことを明かしている。これは赤座の「原作者からの苦情で再放送の中止を依頼した」という証言とは全く異なるなど、当事者同士の間で話が完全に食い違っており、依然として情報が錯綜している。, 小学館プロダクション関係者は安藤の取材に「仮に『日テレ版』の露出があったところで(中略)現行の『ドラえもん』のイメージを損ねるマイナス露出でしかないんですよ。原作者や権利者サイドに特にメリットがないため、露出に向けて積極的に動くことはないでしょうね。基本的には触れてはいけないものという感じです」と述べ、安藤は「今のテレビ朝日版のイメージが唯一のもので、それ以外のものを出す必要はない」という「ビジネスの論理」の存在を指摘している[36]。また、それ以外の「封印」理由に「制作会社の解散から著作権の扱いが曖昧」のうえ「当時の資料が乏しいため公式でも内容を取り扱いにくい」という問題がある。, 藤子プロおよび小学館が監修発刊したムック『ドラえ本3』(小学館、2000年)には写真入りで本作がわずかに解説されており、「原作のイメージと違っていて半年で終了した幻の番組」と紹介されている。, こうした公式サイドによる否定的見解の慣例化や、雑な偽物のセル画[注 21]が出回るうえ、事実無根のデマや誤った情報の流布、資料の焼却、フィルムの散逸などから情報、露出の非常に乏しい作品となっていた。少なくとも2000年代初頭までは、誤った情報が公式に伝わっており、2003年頃に元スタッフの真佐美ジュンが自身のウェブサイト上で正確な情報を公開するまでは、チーフディレクターが上梨満雄でなく大貫信夫とされていた[注 22]。なおスタッフの情報が間違って伝わっていた理由として日本テレビ動画が解散して当時のスタッフや状況の調査が困難になった末、1978年に杉山卓(元・虫プロダクション)が執筆した『テレビアニメ全集2』(秋元文庫)において日本テレビ動画の前作品『モンシェリCoCo』のスタッフ情報を引用し、以降の資料は全てこの本を元に作成されたため、このような誤解が生まれたのであろうと真佐美ジュンは述べている[3]。, 2004年末、日本テレビで放送されていた教養番組『特命リサーチ200X』において真佐美ジュンの所蔵している映像を放送する企画があったが、明確な理由が示されずにオンエアには至らなかった[37][7]。, 2006年には、藤子不二雄FCネオ・ユートピア会報誌43号(2006年12月発行、2009年8月改訂版発行)にて本作の特集が行われ、チーフディレクターの上梨満雄、制作主任の真佐美ジュン、作曲家の越部信義、のび太初代声優の太田淑子のインタビュー、真佐美が提供したオープニング絵コンテ、第1回スケジュール表、サブタイトルリスト、スタッフ・キャストデータ、作画設定資料、フィルムストーリー、中間報告書、1973年4月1日放送の第1話「出た!ドラえもんの巻」の原作「クルパーでんぱのまき」の再録など多数の資料が掲載された[38]。なお本特集では「今まで歴史の隅に隠されてきたアニメ『ドラえもん』の原点にスポットを当てる必要があるし、またそうすることによって、これまで思い込みで『失敗作』と決めつけられた日本テレビ動画のスタッフ達の業績に対して、正しい評価が下されることであろう」「日テレ版『ドラ』は、これまで残された情報があまりにも少なく『失敗作』というレッテルを貼られてきたが、そのレッテルを一旦剥がして、もう一度新たなる評価を下す必要があるのではないだろうか」と結ばれている[2]。, 2007年、CS衛星放送「日テレプラス」が旧作を再放送するために権利者とフィルムの行方を捜索したが、またしてもオンエアには至らなかった[3]。, 真佐美ジュンは自身の所持するフィルムを元に無償での上映会を行っていたが、2011年に藤子プロから上映会を中止するよう要求された[39][40]。真佐美側は「非営利」「無償」「無報酬」の上映会であれば、著作権者の許可を得ずに開催可能(著作権法第38条1項)であること、現在の作品自体の権利状況において上映に問題が無いことを訴えたが、結果的に両者の交渉は決裂してしまった[3][40]。, なお、真佐美はこの件について「昭和40年代、私たちアニメ制作に携わった者たちは、過酷な労働条件と最低の賃金、ほとんどサービス残業で“アニメが好き”ということで命を懸けてきた。そんな自分たちが携わってきた愛すべき作品に興味を持って頂けるなら、多くの方に知っていただきたい、と思うのが人として当たり前だと理解していただきたい。しかし、著作権法という剣を振りかざして、それらの作品を封じ込めようとする営利目的企業などが存在することも事実である。(中略)私は営利を目的とせず、ただ、こういう作品を作ったという証を多くの方に知っていただきたく思うので、年金暮らしの苦しい中でも相変わらず、夢を追いかけることを喜びにした。これからの短い人生を楽しみたいのである。映画作り時の“初心わするべからず”である」とブログに記している[41]。, 2013年2月6日、日本テレビ『1億人の大質問! https://www.huffingtonpost.jp/2017/12/28/ntv-doraemon_a_23318402 knb 北日本放送の公式サイト。いつでも、どこでも楽しめる。knb webは、knbが提供する情報エンターテインメントサイトです。富山県内でのニュースや天気はもちろん、イベントやプレゼント、試写会情報に、番組で紹介したお店情報などなど盛りだくさん! 見てくれよー!」夕焼け空に向かってそう叫ぶのび太の声と共に、物語は幕を閉じる。, 本エピソードの原作は、てんとう虫コミックス第6巻収録の「さようなら、ドラえもん」ではなく、雑誌『小学四年生』1972年3月号に掲載された「ドラえもんがいなくなっちゃう! 藤本 「『ドラえもんとのび太』『オバQと正ちゃん』……」 藤本氏にとって、この“日テレ版”がどれほど許しがたいものだったのか。 そのことを裏付けるのは、富山での再放送打ち切り事件、通称“富山事件”だ。 だが、全26話あるにもかかわらず、「この放送は、わずか9回で終了」。 純ノ介が厳選した、時事・ニュース、話題、都市伝説、新曲情報など、アレコレ大好きなものをピックアップ!!阿弥陀如来・親鸞聖人、およびあらゆる神仏の子です尖閣を守れ!竹島を奪還せよ!慰安婦神話粉砕!, 公開10日目にして観客動員244万人を記録、興行収入32.7億円を突破した映画『STAND BY ME ドラえもん』。, あの『ドラえもん』を3DCGで表現した話題性だけでなく、監督は『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズの山崎貴と、『friends もののけ島のナキ』の八木竜一が務めるという豪華さ。, さらに、秋元康が「何度も泣いてしまった」とベタ褒めしただけでなく、“塩”と呼ばれるAKB48のぱるること島崎遙香までもが「総選挙のときも泣かなかったのですが、この映画では泣いちゃいました」と告白するなど、「大人こそ泣ける映画」という口コミ作戦にも成功。イタリアや韓国、台湾、スイス、スペインなど21の国・地域での公開も決まり(19日現在)、評判も上々だ。, だが、長きに渡って愛され続ける国民的アイドルキャラクターのドラえもんにも、表沙汰にはならない“黒歴史”があるのをご存じだろうか。, 1979年から現在までテレビ朝日系で放送されている長寿アニメ『ドラえもん』は、じつは第2シリーズにあたるもの。, 最初にテレビアニメ化されたのは73年、日本テレビ系列で約半年・全26話で放送されていた。, マニアのあいだでは“旧ドラ”“日テレ版ドラえもん”と呼ばれているものだが、これがソフト化されていないばかりか、ドラえもん公式の資料からも“なかったこと”になっているケースが多いのだ。, 大人の事情で闇に葬られてきた数々の作品の謎を紐解いてきた安藤健二氏による『封印作品の憂鬱』(洋泉社)によれば、その大きな理由は、原作者である藤子・F・不二雄こと藤本弘氏が“『ドラえもん』のアニメを非常に嫌がっていた”せいだというのだ。, この本のなかで、日テレ版とテレ朝版のふたつで美術監督を務めた川本征平氏は、このように話している。, 「藤本先生は、ほとんど余計なことをしゃべらない方でした。それでも、言わず語らず『以前やったのは非常に悔いが残る』なんてことは言われたんですよ。過去にアニメ化を許諾されたことを、非常に後悔されていた様子でした。テレビ朝日で新しくやるときにも、藤本先生は『前のは失敗だった』と思われていて、『そのぶんだけ今回のドラえもんは、これこそがドラえもんだということでやりたい』とおっしゃっていた」, たった9回までしか放送されなかった理由について、小学館の元専務はこう証言している。, 「(再放送を始めた局があると知って)藤本先生は大変お怒りになっていました。(中略)藤本先生は旧作の内容が全く気に入っておらず、『原作とは似て非なるものだ』とおっしゃっていました」, そして、激昂した藤本氏からの「要請を受けて」、小学館は再放送を差し止めるべく、藤子スタジオとの連名で警告状を送付。, ファンならばにわかに信じがたい事件だが、なにも最初からとりつく島がなかったわけではない。, アニメ化始動の際は、藤本氏は「協力を惜しまなかった」といい、実際、アニメ用に部屋の間取り図や家の俯瞰図なども描き下ろしている。が、放送直前に仕上がったパイロット版のラッシュフィルムの出来は、「とにかくひどかった!」(小学館関係者)。, また、映像の出来映えだけではなく、“自主性のあるのび太”“秘密兵器を出すドラえもん”など、キャラクターもアニメオリジナルの設定が目立った。, 声優も、最初は『平成天才バカボン』の“バカボンのパパ”役で知られる富田耕生が演じ、いまの水田わさびの声に顕著な愛くるしさや、大山のぶ代のオカン(保護者)っぽさは皆無。, さらに、途中で富田は降板して『ドラゴンボール』の孫悟空でおなじみの野沢雅子にバトンタッチ。, 現場の混乱が透けて見えるような展開だが、視聴者もオッサン声から一転、突如、少年声に変化したことでさぞかし驚いたことだろう。, ちなみに、日テレ版はYouTubeなどでオープニング動画や画像がアップされているが、, という歌詞が登場するアダルト歌謡のような主題歌(しかし作詞は藤子不二雄が担当)などは、テレ朝版に慣れた視聴者には大いに違和感が残るものである。, ──それでも、封印されていると聞くと、ついつい観たくなってしまうのが人の好奇心というもの。, 「ぜひ観たい!」という人も数多いと思われるが、残念ながら「藤本の著作権を管理する藤子プロの許諾を得るのは相当難しい」(本書より)。, まず、藤子不二雄が突如「解散」を発表し、世間を驚かせたのは1987年のことだった。, ご存じの通り、藤子不二雄というのは藤本弘氏(藤子・F・不二雄)と安孫子素雄氏(藤子不二雄Ⓐ)のユニット名で、デビュー時の足塚不二雄(名字は尊敬する手塚治虫の名から「手塚の足下にもおよばない」という意味で付けたもの)などを経て、53年から名乗っていた。, 藤子不二雄Ⓐによる名著『まんが道』(中公文庫)にも詳しいが、そもそも2人は小学校からの付き合い。, 互いにアイデアを出し合い、ときに刺激し合い、2人で“マンガ家になる”というひとつの夢を追いかけてきた仲である。, 「私たちはお互い50ン才。もうあんまりアトがありません。新しい展開としてそれぞれがやりたいことをやってみるのも面白いんじゃないかと思ったわけです」, と述べ、そのほかのインタビューでも“喧嘩別れしたわけではなく、自分たちの個性を尊重するためにコンビを解消した”ことを強調していた藤本氏と安孫子氏。, だが、安藤氏の著書『封印作品の闇』(だいわ文庫)によると、これはあくまで表向きで、じつは解散にいたったのには別の理由があったのだという。, もともと藤本氏と安孫子氏がコンビを組んでいたときには、藤子不二雄として得た収入を折半していた。, が、コンビを解消した2年後以降の長者番付を見ると、藤本氏のほうが“圧倒的に”納税額が多い。, 安藤氏の取材でも、複数の関係者が「八〇年代の『ドラえもん』の大ヒットで、はたから見て稼いでいるのは藤本先生だというのは明らかになっていました」と口を揃えたという。, しかし、それまで折半でやってきたにもかかわらず、なぜ突然、収入が問題となったのか。, コンビを解消する直前に藤本氏は胃潰瘍の手術を受け、「その後も肝臓を悪くして通院」していたのである。藤子不二雄の2人とトキワ荘時代からの知人で、赤塚不二夫のブレーンを務めていたマンガ家・マンガ評論家の長谷邦夫氏は、『漫画に愛を叫んだ男たち』(清流出版)にこう書いている。, 「重病を抱えた藤本は自分の死を考えれば、これまでのような二人でほぼ五〇%分割に近い著作権料のままでは、藤本家全体が承服できることではないと思ったのだろう。(中略)彼ら二人っきりだったら、友情という絆だけで、どのようにも分割できる。しかし、二人にはすでに家族が存在する。後にトラブルを起こさないよう、明確に分離しておかねばならない。子供時代よりの美しい絆も、現実の前にはかくもはかないものに変わらざるを得なかったのだ」, 安藤氏が『封印作品の闇』でテーマにしているのは2人の解散理由ではなく、2人の合作となっている『オバケのQ太郎』が絶版状態で復刊されない理由なのだが、その封印の真相を、小学館の元幹部はこのように証言している。, 「藤本先生の側の許可がどうしても出ない。未亡人の藤本正子さんの許可が下りないんだ」, 「これは私の推測だが、安孫子先生のお姉さんで藤子スタジオ社長の松野喜多枝さんと、交渉したくないというのも、あったんだと思う。二人の間には、藤子不二雄がコンビを解消したときからの因縁があるんだ」, 「(コンビ解消の理由は)松野さんの存在が大きかったはずだ。彼女が藤子スタジオのマネージャーになったのは、『ドラえもん』の連載の途中からだったと記憶している。それまでは、藤本先生とも安孫子先生とも、直接打ち合わせできていたが、その後は必ず松野さんを通さないとできなくなった。(中略)松野さんが自分の弟である安孫子先生に、スタジオの軸足を移そうとしたのかはわからないが、スタジオ内でのパワーバランスが崩れてきたような話は聞いたことがある」(同書より), この合作『オバQ』は、09年に発刊された『藤子・F・不二雄大全集』に収録され、20年以上にわたる封印が解かれた。, よって、封印の理由と見られていた“家族同士の問題”はすでに解決したということなのかもしれない。, だが、収入格差による家族同士のトラブルを懸念し、長年のコンビを解消していたとなれば、その原因をつくったのは『ドラえもん』だということにもなるだろう。, とはいえ、忘れてはいけないのは、『ドラえもん』は藤子氏と安孫子氏の友情があったからこそ誕生したということだ。安藤氏が「目頭が熱くなってしまった」という、2人の過去のやりとりを引用しよう。, 安孫子「そういえば、ぼくらの漫画は、主人公二人っていうのが多いな。」 読売テレビ公式ホームページです。最新の番組情報やニュース、映画、グッズ、プレゼント、イベントなど読売テレビに関する様々な情報をお届けします。 『ドラえもん』初アニメ化」, 藤子不二雄FCネオ・ユートピア別冊「特集ドラえもん 129.3」(1999年2月初版発行、2009年5月改訂版発行、2010年5月3訂版発行). 奥田交番襲撃の元自衛官に無期懲役判決 富山地裁 2人殺害、強盗殺人罪認めず(北日本新聞) 2018年に富山市で起きた奥田交番襲撃事件で、強盗殺人罪などに問われた元自衛官、島津慧大(けいた)被告(24)=立山町… 安孫子「楽しい漫画を力いっぱいいっしょうけんめい描こう!」, ──『ドラえもん』が不朽の名作となり得た裏側には、こうした藤本氏と安孫子氏の“唯一無二の輝かしい友情”がある。, 「(収入の問題で)トラブルは一切ありませんでした。(中略)二人とも漫画を描くことが大好きで、そのまま漫画家になった、という感じでプロの意識がなかった」(「アサヒ芸能」02年9月5日号), と答えているように、藤本氏と安孫子氏の2人のあいだでは“二人で一人、仲良く描き続けて”いただけなのだ。, 結果として家族を配慮する気持ちから解散してしまったと思われる2人だが、大人になってもこのような美しい関係を築けるとは、なんという奇跡だろう。, 藤子・F・不二雄生誕80周年記念として製作され、現在大ヒット中の映画『STAND BY ME ドラえもん』。, ぜひこの機会に、『ドラえもん』裏ヒストリーともいえる2人の物語を触れてみてほしい。, ドラえもんの黒歴史(前)全26話が封印! 知られざる放送中止事件 | 純ノ介の「日の丸日報」. 富山での特撮の放送事情ですが、1975、6年頃北日本放送で「科学戦隊ゴレンジャー」を水曜日に ... 黒い事件簿~ⅤくらいまでKNB月~金の16:00で【再】。 ... 今では幻の日テレ版ドラえもんがやってた。 !』で出した大赤字を本作で得た収益で補填できたことに加え、「その前にいろんなことをやられて懲りた」という稲庭が、新倉の失踪を機に「少しでも赤字が埋まったところで解散した」と述べている[2][3][15][18]。一方、美術監督の川本征平は新倉の失踪の理由を「次回作が決まらずに資金ショートしたからではないか」と安藤健二の取材に答えている[18]。, 会社の解散という混乱の中、同年9月30日放送の「さようならドラえもんの巻」を2週間で作り上げ最終話とし、半年で終了となった[19]。最終回は自転車が漕げなかったのび太が泣きながら自転車を漕ぐ練習をする姿を、未来の世界に帰ったドラえもんがタイムテレビで見守るところで物語が終わる[19][20]。最終回ラストのアイキャッチはあえて「次回もお楽しみに」として終了させており、これは制作主任の真佐美による演出だった。これを疑問に思った制作進行(担当制作)の木沢富士夫[注 13]に、真佐美は「こんな形で日本テレビ動画のドラえもんは終わってしまったがスタッフのみんなは、まだ続けたかった。もう一度日本テレビ動画で同じスタッフと一緒に『ドラえもん』の続編を製作したい思いを込め“次回をおたのしみ“にしたんだ」と意図を明かしている[3][15]。また番組最後の「おわり」のエンドカードでドラえもんの丸い手から黄色い小鳥が飛び立っていくシーンがあり、これにも続編製作の希望として「再会」の意味が込められているという[注 14]。, 最終回が放送された9月30日、ブラウン管に映る『ドラえもん』が描かれたスタジオには既に人影はいなかった。その後、残された旧作スタッフは債権処理などに追われ、ついに日本テレビ動画が再建されることはなかった。しかし、6年後に他局他社ではあるものの現在のテレビ朝日版によって「続編」は実現し、テレビ朝日版の第1話は「未来の国からはるばると」という原作第1話のエピソードではなく、通常のエピソードの1本である「ゆめの町ノビタランド」とした。これが普通に本編から始まっている所からも、まるで第1作の続編を意識したかのような形がとられ、両者の間で受け渡しがあったかのような構図になっている。, 残された日本テレビ動画のスタッフらは、グロス請け先の支払い金を充てるために会社の備品など売れるものは全て売り払い、社屋引き払いのため本作に関する資料のほとんどを止むを得ず廃棄処分したという[21]。しかし、実際には、川本征平のように全く支払われなかった外注スタッフもおり、川本は日本テレビのプロデューサーから「制作費は既に日本テレビ動画に支払っているから、これ以上は払えない」と言われたという[21]。また、川本によると少なくとも日本テレビ動画が外注したアトリエローク(川本が主催)とスタジオじゃっくには最終2話分のギャラが未だに支払われていない[21]。この件に関して「私の後任のプロデューサーは局と外注スタッフとの板ばさみになって非常に苦労された」という企画当初のプロデューサーである川口晴年の証言も存在する[21]。, 真佐美ジュンは最終回が放映された9月30日の夜、日本テレビ動画の解散に伴う社屋引き払いのためセル画や絵コンテなどの制作資料を、浦和市(現・さいたま市)内の荒川河川敷で止むを得ず焼却処分したと証言している[11][19][15]。このような理由から、結果的に本作の資料は当時のスタッフが個人的に所有している一部のものを除いて、ほぼ現存しないとみられている。, 様々な想いを馳せたライトバン一杯に詰まったセル画、せりふ台本、絵コンテ、カット表、シナリオ原本、色見本、色指定キャラクター集、現金出納帳が目の前で燃えていったことを、真佐美は「わが子を荼毘に付す気持ちでした」と、当時置かれた心境を回想している[19]。放送終了後も藤子・F・不二雄は後述する作品内容への評価とは別に、個々のスタッフの姿勢に対しては好意的であり、真佐美が放送終了後に藤子本人に会いに行った際には「是非またやろうよ」と言って握手してもらったと述べている[19]。, 日本テレビ動画解散後、元スタッフらは田無市西原のアパートに日本テレビ動画の労働組合を作り、失業保険を受け取りながら管財人との交渉の拠点としていた。その後、元スタッフらは就職先が決まったり、仕事を廃業して田舎に帰ったりしていたので、日本テレビ動画の労働組合は1975年3月に活動を終結した[3]。, 本作のフィルムは放送終了後も日本テレビで7年間管理され、その間は地方局へ貸し出されることもあった[3]。再放送は、日本テレビ平日朝の再放送枠『おーい!まんがだヨー』(関東ローカル)で1974年・1975年に行われたのをはじめ、テレビ朝日系でアニメ第2作が開始される1979年までの5年余りの間に、複数の局で比較的多く行われていた[22]。, フィルムは日本テレビでの管理期間終了後、散逸して行方不明になっていたと思われていたが、安藤健二の調査により、本作の現像を担当した東洋現像所(現:IMAGICA)が1995年に横浜工場を閉鎖する際の在庫整理で、最終話を含む後半16話分のネガフィルムを発見し、同社が委託している東京湾岸の倉庫に保管されていることが判明した[23](現存状況については後述)。, 編成上、日曜夜7時枠は日本テレビ制作枠から読売テレビ制作枠に切り替えられ、元々月曜夜7時半に放送されていた「全日本歌謡選手権」が移動、空いた月曜夜7時半枠は一旦日本テレビ制作枠に変更し、木曜夜7時半に放送していた『ほんものは誰だ? 月曜ZIP!は風間俊介 今日から「まん延防止」が適用 高齢者のワクチン開始 平野&海人弁当対決 池江4冠全種目でV コナン毛利蘭×家電 菅田将暉と英会話! テレビ朝日版「ドラえもん」が放送開始された直後に富山テレビで日本テレビ版「ドラえもん」が再放送された事件。この一件で原作者の怒りを買い、日テレ版ドラえもんが再放送できなくなった。 現在、アニメ版のドラえもんはテレビ朝日が放映を始めた1979年を起点に語られることが多い。 だがそれに遡ること6年、1973年に日本テレビ系で既にアニメが放映されていた。かなりの黒歴史で公式で取り上げられることはまず無いが、日本テレビ公式HPの70年代社史にこっそり「「ドラえもん」がスタート。」と載っていたりする しばしば「旧ドラ」とも呼ばれる。しかし、存在を知らない人にとっては、大山のぶ代陣のドラえもんと誤解を招くため「日テレ版ドラ」と呼ぶ方が適切であろう。 日本テ … 『ドラえもん』は、藤子・F・不二雄の漫画『ドラえもん』を原作とする日本テレビ動画制作のテレビアニメである。 『ドラえもん』のアニメには以下の3作品が存在する。 ドラえもんの黒歴史(前)全26話が封印! 知られざる放送中止事件 2014.08.20 (略) だが、長きに渡って愛され続ける国民的アイドルキャラクターのドラえもんにも、表沙汰にはならない“黒歴史”があるのをご存じだろうか。 ?笑ってコラえて!』のインタビューで野沢雅子が「ぼくドラえもん。」とドラえもんの声を演じている。また、野沢はNHK総合テレビ『あさイチ』(2015年7月9日放送)でも、「モノクロだったんです[注 23]」「出すの早すぎたんでしょうね、そんなに長く続かなかった」などと僅かではあるがこの作品について証言している。そして番組の最後には「今日もごきげんよう」とドラえもんの声を演じている。, 初期原作の設定やアニメオリジナル設定を用いているので、第2作以降とは異なる設定が複数存在する。, 内容は「ドラえもんが未来からやってくる」という原作第1話を意識した作品で、1979年に放送開始されたテレビ朝日版第1話「ゆめの町ノビタランド」およびシンエイ動画制作のパイロット版「勉強部屋のつりぼり」において「ドラえもんが未来からやってくる」といった内容が描かれなかったのに対し、本作はドラえもんとのび太の出会いを描いた物語となっている。, パイロット版の制作および演出は、日本テレビ動画の真佐美ジュンと佐々木一雄が担当し、設定やシナリオは文芸担当の徳丸正夫が用意した。なお、チーフディレクターの上梨満雄は、藤子不二雄FCネオ・ユートピア会報誌43号のインタビューでパイロット版の制作には不参加だったと述べている[2]。, サブタイトルクレジット部では、ドラえもんが四次元ポケットからボードを取り出した所で、ドラえもんのナレーションで「○○の巻。」と読み上げる。なおサブタイトルが「の巻」で構成されているのは、本作が唯一。, 関東地区の平均視聴率は6.6%、最高視聴率は9.1%(ビデオリサーチ調べ)[12]。, 第16回と第17回の間の7月22日は、「オールスターゲーム・第2戦」中継(大阪スタヂアム。読売テレビ制作。枠は19:00 - 21:25)のため休止。, のび太が家に帰るとドラえもんとセワシが何か話している。セワシは何かを話そうとするが、ドラえもんに「僕が話すから」と止められ、「きっとだよ」と言い残し未来に帰って行った。ドラえもんは浮かない顔で何かを話そうとするが、そこへデパートから最新型の自転車が届く。のび太はしずか達とサイクリングに行く約束をしたものの、自転車に乗れないので安直にドラえもんを頼ろうとしていたのだ。, しかし、ドラえもんはいつもの調子で甘えるのび太を冷たく突き放す。いつもと様子が違うドラえもんだったが、のび太は「いざとなったらいつものようにきっと何とかしてくれる」と気にも留めなかった。思い切って何かを打ち明けようと決心したドラえもん。しかし、のび太に差し出されたおやつのどら焼きに心を奪われ、更に「この世に君がいなかったら僕は一人で生きていけない」という彼の言葉に動揺し、そのまま家を飛び出してしまった。, ドラえもんは、頼りっきりなのび太の自立心を養うために未来へ帰ろうと考えていたが、優しくしてくれるのび太にそれを言い出せず悩んでいたのだった。落ち込んでいた所へ偶然会ったガチャ子に相談する事にしたドラえもん。そして、ガチャ子のアイディアで未来に帰る嘘の口実を作る事になった。, 「ドラえもんの体の様子がおかしい」とガチャ子から聞かされたのび太。慌てて駆け付けると、そこには狂ったように苦しみ始めたドラえもんがいた。「未来に連れて帰って治さないといけない」と言われ、嘘を信じ込んでいたのび太は泣き出してしまう。それでも、「ドラえもんがいなくなったら困るけど、ドラえもんが治る為なら我慢する。だから自分に構わず帰って欲しい」とドラえもんに訴えた。, 優しい言葉に感涙したドラえもんは嘘をついた事を打ち明け、自分に頼り過ぎてダメな人間になりそうなのび太が心配で、強い人間になって欲しいが為に未来の国に帰る事にしたと本心を告げる。のび太は「僕の事は心配しなくていいよ」と彼の気持ちを受け入れた様子で愛想笑いを浮かべた。, その後、仲間らは広場に集い送別会を開く。ジャイアンやスネ夫、しずかも涙ながらにドラえもんとの別れを惜しみ、のび太と共にどら焼きをプレゼントする。喜ぶドラえもんの丸い手から黄色い小鳥が飛び立っていく。テーマソング『ドラえもん』に合わせて仲間らに家まで送って貰ったドラえもんは、のび助や玉子とも別れの挨拶を交わした。, そしてドラえもんとのび太は、いつかの再会を誓い、最後の別れを告げる。「未来の国でいつも君を応援しているからね」そう言い残したドラえもんは机の引き出しに入り、未来へ帰って行った。ドラえもんがいなくなった現実に、のび太は「本当は、ずっと居てもらいたかったのに…」と号泣してしまう。するとドラえもんが、再度引き出しから現れた。のび太は唖然とするが、プレゼントのどら焼きを持ち帰るのを忘れていたという。改めて別れの挨拶を交わした二人。去り際にのび太にエールを送ったドラえもんは、今度こそ帰って来る事はなかった。, 「もうドラえもんの力に頼らない」───何度転んでも起き上がり、自転車に乗れるようにひたむきに頑張り続ける。そんなのび太の姿を、ドラえもんはセワシと一緒にタイムテレビで未来から温かく見守っていた。「ドラえもーん! 視聴者からは阿鼻叫喚の声が多数挙がる, 【幻のドラえもん】(中)「アニメの手塚」の“子供”たちが手がけた (3/3ページ), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ドラえもん_(1973年のテレビアニメ)&oldid=82842346, ジャイアンの父は体格が小柄で、人柄が良く息子思いの面が強調されていて、息子のためを思って無理をすることがある。腕力はとても弱い設定。名前は「小助」。雑貨屋「正直屋」を営む。, 放映開始前後に発売された『小学五年生』1973年4月号掲載の「ハイキングに出かけよう」で「, 原画 - 永樹たつひろ、竹市正勝、熊野基雄、上條修、田中保、佐藤徹、山下征二、スタジオジョーク、スタジオテイク, 動画 - 秋山博雅、岡山陽子、荒井政良志、加藤輿治、楠田悟、滝波いつ子、八武崎好郎, 仕上 - 江口マキ子、大橋啓子、黒田英里子、小林一幸、島崎あつ子、長村葉子、石田康美, 1974年度 月曜-金曜 朝8時20分-8時55分→月曜-金曜 8時00分-8時30分(休止1回、全26話), 「パパとママの結婚記念日の巻」と「おせじ鏡の巻」が別の日に書いてあるなど、順番が混乱している。, 月曜-金曜 18時45分-19時00分(本来、1回・2話構成だったうち、半分の1話ずつ放送された), オープニング(※真佐美保管のものは音声・クレジットなしのラッシュフィルム、IMAGICA保管のものは音声・クレジットあり), エンディング(※真佐美保管のものは第2回、IMAGICA保管のものは第18回、第20回 - 第26回), 『昭和40年男』2012年10月号「昭和48年 あの日を再検証 早すぎた挑戦!? 公開10日目にして観客動員244万人を記録、興行収入32.7億円を突破した映画『STAND BY ME ドラえもん』。あの『ドラえもん』を3DCGで表現した話題性だけでなく、監督は『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズの山崎貴と、『friends もののけ島のナキ』の八木竜一が務めるという豪華…
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